ホームへ

金城山・山上の武者

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵に同じ。---平家物語より

節へ  (2) (3) (4) (5)


 (1)

 2002年2月4日

 静かな夜である。
 軽量テントの中で、快い眠りに就いていた。
 金城山頂、南面の平地、発泡シートを敷いた枯れ葉のベッドは、予想以上に快適であった。
 山の懐が、私を優しくつつんでいた。
 ときおり吹く、穏やかな風が、木の枝を揺らし、枯れ葉を落とす。
 空は満天の星月夜である。
 昔、この山頂にも寺があったらしい。そうだとすれば、幾人もの人がここで寝泊りしていたのだろう。
 風によってゆれる木の枝や、枯れ葉の音を聞きながら。
 時には満天の星空をながめながら。


 眠りが一段落を告げる。

 なにかの気配にふと気がつく。
 テントの外が妙に明るい。月明かりとは異なる。
 風の音は止まり、澄んだ音が流れている。
 笛の音らしい。
 山頂の円い平地に若武者が一人、武具を外し、赤松の倒木に腰を下ろしている。まだ童顔の残る、美青年である。
 横笛を吹いている。
 月光が若者を照らし、白っぽい衣装が、周囲をさらに明るくする。
 若者からの笛の音が、光となって放散している。
 私が間近にいることにも気付かぬように、柔らかな調べが流れる。
 焚き火の向こうの煙の陰に、もう一人の人物がいた。同様に倒木に腰掛ている。錫杖を携え、墨染めの衣をまとっている。中年の僧らしい。浅黒く張った頬、引き締まった口元を髭が覆っている。閉じた目には涙さえ見られる。
 私は彼らから遊離している如く、周辺を徘徊する。目出し帽を被った私は、闇の帽子を被ったペルセウスの様に、彼らには見えないらしい。
 僧の名は蓮生(れいせい)、源氏の武将熊谷次郎直実の仏門に入った姿である。武蔵の国熊谷の人である次郎直実は、はじめ平知盛に仕えたが、後に源頼朝に降り、やがて平家追討の搦め手(からめて)である源義経の軍勢に加わった。


 京都から西国街道を通り、平家主力が駐留する福原(今の神戸市)に向かう大手(正面)の大将は、異母兄の源範頼(のりより)。対して、丹波路から播磨に向かうのは義経。これは背後からの攻撃である。搦め手(裏面)である。
 丹波と播磨の境、三草山(423.9m)とその周辺には平資盛(たいらのすけもり)を総大将とする三千余騎の平家軍が布陣している(平家総勢は十万余騎)。搦め手を止め、山陽道に於ける平家安泰を画する布陣である。
 これに対して義経軍は一万余騎(平家軍が敗れた戦いである。平家物語によるこれらの数値は不正確な可能性もある。義経軍は一千騎程度と推定する説もある。何れ側も”騎”となっている点も疑問の多いところである。)
 源氏の兄弟、二人の大将軍は、1884年(寿永3年)1月20日宇治川の戦いにおいて、圧倒的に木曾義仲を破る。勢いに乗り、それほどの休養もとらず、平家軍に向かった。義経軍は京を経つ事1日にして(通常は2日の行程)小野原(今の篠山市今田町)到着した。三草山麓までおよそ10キロの地点である。
 2月4日は清盛の命日である。京に於ける源氏軍の打ち合わせでは、この日は攻撃を控えることになっていた。
 平資盛も、世間通例上その様に想っていた。義経軍はかなりの疲労のはずでもある。
 しかし、義経は、その日の夜に攻め込んだ。土肥実平・畠山重忠・熊谷直実・伊勢義盛・武蔵坊弁慶ら実戦・連戦の武者を伴って。
 民家に火を放ち、山を焼き、闇夜を赤々と焦がし照らして、道を開きつつ攻め入った。
 このとき、小野原には一軒の家屋も残らなかったと言う。行程にある民家や草木も焼いて。
 冬枯れの草木は、谷あいを吹く北東からの風に煽られて燃え上がり、南西の三草山麓に主力の陣を構えた平家軍を、恐怖と混乱に落とし入れた。
 その日資盛は、祖父清盛の法要を、当時三草山東南に連なる権現山(360m峰)尾根上に在った、朝光寺にて行っていた。
 平家側の大多数の兵は、明日あるであろう戦を想定して休眠していた。
 資盛は、公家の生活に染まった、文化人に近い武将であった。琵琶の名手でもあった。戦いの世界に生きてきた義経とは、あまりにも違いすぎた。京からたった一日で小野原に着き、勝利するためとは言え、休息もそこそこに、民家に火を放って深夜に攻め入る人間、義経の敵ではなかった。混乱のなか逃げた。恥もあって福原には向かわなかった。加古川沿いに高砂の浦に下り、海をわたり屋島に逃れた。


 (2)


 熊谷直実は治承四年(1180年)、石橋山の戦いでは、平家方に組していた。
 源平の合戦は、この年からスタートしたと言っていい。5月の三井寺・宇治川の戦い、源三位頼政敗死。そして8月、頼朝による石橋山での戦いは、まさに源平合戦の始まりである。この時、わずか三百騎で挙兵した頼朝は大敗、平家方の武者・梶原景時の恩情でからくも逃れた。九死に一生、そのものであった。
 しかし、安房に逃れた頼朝は北条氏をはじめ、平家への反感をもつ多くの東国武士を支えに勢力を整えていった。
 安房・上総・下総・武蔵・相模と進むに連れて勢力は増していった。逆に、平氏の勢力は減っていった。
 頼朝の覇権の道のスタートでもある。
 10月6日、頼朝はかねてから予定していた鎌倉に入った。
 この頼朝の挙兵が、清盛の耳に入ったのは9月1日である。かって頼朝を助命したことのある清盛は、激しく怒り、頼朝討伐を決定した。
 しかしこの討伐軍の編成は遅々とし、まとまりがわるかった。
 両軍が合いまみえた、10月20日、富士川の合戦。
 士気の乏しい平家軍は、源氏軍の動きでいっせいに飛び立った水鳥の羽音に驚き、一戦の交わりもなく敗走した。
 勇猛な東国武士と平安貴族の文化に慣れた平家武士との出会いであった。
 もはやほとんどの東国武士は、平家を見捨てたのである。平家衰退はすでに音を発てて始まっていた。
 熊谷直実も同様であった。彼は源氏の武将となった。
 直実は武者として優れていた。源頼朝から日本一の剛の者と言われた程である。
 野心は人並み以上に持っていた。剛毅な性格であって、策や弁舌には疎い方であった。したがって作戦を練る場では、出番が無かった。
 彼が名声を得る場は、戦場のみである。


 三草山の戦いにおいても、義経に呼応し、炎の中を、先頭に立って小野原から今の市原・鴨川を駆け抜け、慌てふためく平家軍を蹴散らして、一挙に山口に達した。    
 その後、火を避けて、北側の池や湿地の多い数曽寺谷あるいは廻谷付近で陣を整えた。
 注: 高松山長明寺の寺記によれば、三草合戦において”熊谷直実を旗頭とする源氏の一隊が金城山に陣した。”とあるが時間的な経移を考慮すれば、金城山までは距離がありすぎる。金城山に連なる山の、上記の谷付近が熊谷の陣した場所と考えるのが妥当である。                           これらの谷の背後には、平家討伐最初ののろしを上げ敗死した、源三位頼政公の所領である旧高松山(現在名、金城山)が主峰としてそびえている。源氏側にはより安全な場所である。
 先陣をきっては見たが、手ごたえは少なく、拍子抜けのごとき戦いであった。
 平家軍の敗走は速い。
 戦功を語るには、もの足りない。
 総大将義経(25才)は追撃した。しかし加古川沿いに逃げ下った、資盛(23才)を深追いすることは避けた。目標は福原(神戸)にあったからである。
 義経はからめ手の総大将ではあったが、その戦略はあまりにも機敏で、大軍をコントロールし得るタイプとは言えなかった。多くの傘下の武将は、その戦略につけなかった。極めて少ない人数のみが従った。奇襲向きの態勢であった。
 ついて行けなかった武将達は、それらの動きをスタンドプレイだと広言した。
 一の谷への、ひよどり越えからの奇襲は、わずか七十騎であった。義経は気力・体力・知力に充実していた。七十騎も彼を信頼し、支えた。
 思わぬ攻撃に驚き、又もや平家は逃げた。
 熊谷直実(43才)は、その攻撃の最先陣をきった。
 屋島に逃れる舟に向かう、立派なみなりの鎧騎馬武者がいた。
 平敦盛(15才)である。   注:これら人物の年齢は満年齢で表示。これまでの多くの書物とは異なる。
 一の谷合戦、熊谷直実と平敦盛の史実はあまりにも有名である。
 直実は自分の戦歴で初めて、殺そうとする相手に心が通った。相手が若く、美しくそして気品があったからである。
 殺害した後、若武者が身に付けていた一かんの笛にも心を盗られた。
 直実の脳裏に強く刻まれた。


 いつしか、敦盛の笛の音は途絶え、焚き火の音がはじける。
 二人は目も合わさなければ、話もしない。
 晴天の星空の下、金城山の山頂にうすく煙が上る。風もない。
 ながい沈黙に、私が焦れる。
 目だし帽を脱ぎ、話かけたくなる。”なぜ、此処にいるのだ”と。
 風もないのに炎がゆらぎ、すっと消えた。闇が山上を閉ざし、影が動く。
 再び炎が上がり、周囲を照らす。
 もう一人の人物がいた。
 あさぎ色の着流しに赤い羽織をまとい、大小の剣を腰に携えて立っている。秀でた額、縮れた頭髪をうしろで束ねている。
 鍛え抜かれた体躯とすきの無い口元とまなざしをもち、年の頃は五十才位である。うすい無精ひげの顔を穏やかさがおおっている。
 私は”彼は宮本武蔵である”と直感した。自画像とされる”二天像”そのままである。
 「資盛殿」
 「資盛殿か」
 二人は同時に声をかけた。彼はうなづいた。・・・武蔵が資盛だとは・・・
 私には信じられない。あまりにも違いすぎる。


 (3)

 ここで平資盛の人物像を紹介します。
 1161年生まれ。
 平家物語における、悪役清盛の嫡子で善人役重盛(しげもり)の次男である。清盛直系の孫にあたる。
 治承三年(1179)清盛の信頼があつかった父、重盛の病死、次いで腹違いの兄、維盛(これもり)も出家する。
 叔父の宗盛(むねもり)が実権を握る。
 治承四年(1180)、源頼政の反乱においては、維盛と共に大将軍を務め、鎮圧する。以後も、反平家勢力の追討に活躍する。
 清盛の娘、建礼門院徳子(資盛の叔母)宅に出入りし、女房(女官の部屋)の右京太夫と恋仲になる。
 しかし、木曾義仲の京都入りで西へ逃れ、福原に本拠をおいた宗盛に合流し、三草山の総大将を命じられる。
 寿永三年(1884)二月、三草山の戦いで敗れ、屋島に逃れる。翌文治元年三月、壇ノ浦の戦いでも敗れる。弟の有盛・従弟の行盛と共に、鎧に碇をつけて入水したと言われている。
 青年期を向かえてから、激しい苦難に揉まれる。恋したがために、兄の維盛のごとく、出家することも出来なかった。直系の家柄の頭領として、戦闘派の実権者、宗盛に合せざるを得なかった。
 琵琶の名手とも言われている。
 俊成・定家などの歌人とも親交があった。文化人でもあった。


 「資盛殿、少しばかり年を召され過ぎではないか」
 「義経殿はもっと若かろうに」
 武蔵姿の資盛は笑っている。飽くまで穏やかである。
 -----------------------------------------
 資盛と武蔵の接点があるとすれば、”高砂の浦”である。
 近年の研究調査によって、武蔵生誕の地は、兵庫県高砂市説が有力である。
 作者としては、資盛が義経から、辛く必死の思いで逃れた高砂の浦や恨みをのんで入水した壇ノ浦が、武蔵の生誕の地や佐々木小次郎との決闘の島に近いことに注目すると共に、義経と武蔵に共通する、奇襲戦法・知力・体力を物語の題材として考えてみたのである。
 また資盛の強い思いが、”義経に勝つべき可能性のある人物として、武蔵に生まれ変わった”と想定した。
 ------------------------------------------
 高砂の浦で、資盛は松の幹に顔を伏せて、義経への反撃・復讐を誓った。自分の甘さを呪った。
 屋島での敗因も、その根底にあったものは、山側からの奇襲である。義経はここでも、一の谷合戦に酷似した戦法を展開したのである。
 水軍を持たない源氏軍ではあったが。嵐の中、150騎、5艘の舟で未明に阿波勝浦に着くや平家に味方する陣営を激しく攻め落とした。
 火を放ち、民家を焼き、すばやくせまった。これは三草攻め同様の手法である。
 屋島の対岸、あるいは総門に攻め入る一方、屋島南端の赤牛崎に上陸し、海浜に向かって布陣する平家の背後を奇襲した。
 平家は次第に屋島から離れ、志度湾に逃れた。熊野水軍・梶原景時軍船の源氏側への参戦により、水軍は次第に平家側よりも強力に成っていった。
 時の流れは、平家を見放していった。
 志度湾の戦いの後、平家一族郎党は四国を離れ、西海に逃れた。
 しかし、平家軍総勢五百余艘は長門壇ノ浦で、伊予水軍・摂津の渡辺水軍などをも味方につけた義経軍総勢八百余艘の前に、敗北消滅したのである。
 正に、清盛の蒔いた種は、その時、雑草として刈り取られた”源義朝のこぼれ種”によって駆追されたのであった。


 当時、日本の有史上最大のドキュメントは終りを告げた。1185年(文治元年)3月24日のことである。
 平家の怨霊は瀬戸内をさまよい、多くの伝説が広がり各地に残っていった。
 義経は平家討伐の最大の功労者である。
 しかし、頼朝はその功に報いたとは言えない。
 色々な”しがらみ”がその様に為したと、解釈されている。
 作者は、余りにも多く痛ましい平家の最後に、その因の一つがあると考えている。
 当時、義経の評判は、近代の”判官びいき”には程遠く、戦場に位置する民にも強く恨まれたのである。民一般は平家をそんなに嫌っていなかった筈である。
 彼もまた、生存時には恵まれない人間であった。
 いつの時代も、対話の途絶えた世界は痛ましい。
 義経は反抗し、追われ、奥州で死ぬ。
 世間に広く、義経の人気が出たのは、彼が死して後のことである。


 (4)

 「義経殿は強いお方だ」蓮生坊は言う。
 「私は鎌倉にあって、頼朝殿より”日本一の豪の者”と称せられた。しかし、義経殿が参戦された後は、この呼称を返上せねばと思った。それは、武蔵坊弁慶殿が居たからである。彼は私に、一目おかせるに十分な存在であった」
 続けて言う。「弁慶殿は、強さに於いて、鬼神のごとき存在であった。しかし、小柄な義経殿の前では従順そのものである。聞けば、彼が闘って敗れた唯一の人物が、少年期の義経殿であったと言う」
 「義経殿は数々の戦功を挙げた。その何れもが機敏なる行動と、すぐれた体力・体術によるものだ」
 「彼こそ、日本一の強者であった」蓮生坊は言い切った。次いで
 「彼は幼少にして父母と別れた。鞍馬山僧正ケ谷の大天狗に武術を教えられ、次いで陰陽師鬼一法眼(おにいちほうげん・きいちほうげん)より兵法の奥義を得た。法眼の出身地は伊予の吉岡である。この鬼一法眼こそ染色者であり剣術家の吉岡拳法(建法)・吉岡清十郎の先祖にあたる。武蔵に生まれ変わった資盛殿が打ち破りし、京都の吉岡一族の先祖は、義経殿の教師でもあったのだ。ご存知か」
 武蔵はうなずいた。彼と義経の接点はすでに有ったのである。
 資盛(武蔵)は、義経に兵法を与えた法眼の末裔を、完膚なきまでに叩き潰した。たった一人で。平家一族の恨みを込めて。
 ついに武蔵は語りだす。
 「今にして思えば、私は義経殿を打ち負かすための人生を送ったのかも知れぬ。少年期は義経殿に似ている」語り続ける。
 「私も幼少より父母を離れた、高砂から美作に養子に出された。養父の無二斎により、厳しく鍛えられた」
 「少年期、13歳で武芸者有馬喜兵衛を打ち破り、殺害した。弁慶殿をほんろうした、牛若丸に似ていて、さらに荒い」
 「青年期、徳川方対豊臣方の合戦に加担、しかし義経殿と異なり、将としての経験はない」
 「関が原と大阪冬の陣・夏の陣に参戦、その間に吉岡一門・槍の宝蔵院・鎖鎌の宍戸梅軒・柳生神陰流大瀬戸隼人・辻風典馬・中条流佐々木小次郎等に勝つ」
 吉岡一門との戦いは、彼を大きく変えた。真剣勝負への自信を植え付けた。
 ”たった一人で勝つ”、人に頼らぬ、これが資盛武蔵の信念である。
 義経と闘うには、修羅場をくぐり勝ち抜けてゆく、経験を伴った自身が必要だった。奇襲戦法も必要であり、使った。
 来るべき、時空を越えた、義経との闘いのために、彼は修業を続けた。
 兵法・学問・芸術も忘れなかった。心の修業である。


 一方、義経の思いは別である。
 彼は父の無念をはらし、兄を支えるために全力を尽くした。
 平家清盛一党は、父を殺し、母を引き離した、不倶戴天の敵であった。
 もの心ついた頃から、平家への仇を考え、鍛錬する運命と環境にあった。
 平家を討伐し、兄頼朝の喜ぶ顔が見たかった。兄弟で抱き合って喜び、酌み交わしたかった。
 しかし、討伐後は、予期せぬ運命が待っていたのである。
 彼は、頼朝への疑問にさいなまれた。
 一国を統治する覇者への疑問であった。
 彼はこの答えを見出せぬままに、死んでいった。1189年4月30日、妻子を道連れての、希望の無い、自害であった。30歳。


 いつの間にか星空は消え、焚き火の周囲を濃い闇が包んでいた。
 武蔵が、すっと、姿勢を正した。
 遠く、地鳴りの音がする。
 しだいに近づいてくる。
 音はやがて、響きとなって周囲を圧倒してきた。
 平原を駆ける馬の蹄の音である。
 何百、何千、何万という数の馬が疾走している響きであった。雄叫びが交じり、武具の鳴る音も、ざわめきの内に聞こえてくる。
 焚き火に近く、暗闇を圧倒して、地響きが鳴り続ける。
 金城山、山頂の北側の闇を、三人は傾注する。


 (5)

 炎が小さくなり、気配を感じた武蔵が振り向く。
 暗くなった炎の向こうに、人影が浮かんでいる。
 闇に背を向ける武蔵。
 背後の暗闇と地響きの中から、突如として、白い閃光が武蔵を襲った。間一髪で左に避けた武蔵、抜き放った右剣が、青い光となってそれを払う。
 ボトリ!と落ちたものは旗槍の穂先である。 
 「お見事である」、前方の人影から声が出た。
 「いや、旗槍でなければ、傷ついた」、武蔵が応じた。
 敵の前方に姿を現し、背後から奇襲する、これは義経の戦法である。
 気配を察知し、間一髪の見切りを可能にする、武蔵剣術の極意である。
 人影が語る。
 「私は蒙古帝国のチンギスハーンである。テムジンと義経、二人が結びついている」
 「1189年、テムジンが周辺21氏族の長として即位した。その年の4月、テムジンに義経が入魂した。覇者チンギスハーンはテムジンの心体に、義経の魂が入り、強固に成立したものである」
 「先ほど、あなたを攻撃した者は義経である。前にいた影はテムジンだ」、しばし間をおいて言う。
 「義経として語りたい」と。
 「覇者への疑問を抱いて死した私の魂は、丁度モンゴルで覇権を握らんとしていたテムジンに遭遇した。彼は私よりも3歳若く、私と酷似した体格と性格と体質を有していた。死にきれずして死した私が宿るに、まさしく好適であった。
 民族間の統一を進めていた彼・テムジンは、強力な魂とみて、わたしを快く受け入れてくれた。二人の魂は融合したのである」
 「それから38年、戦い続けた。覇権領域は拡がり続け、東は朝鮮半島に接し西は黒海周辺まで達した。尚も、とどまる事を知らず、蒙古帝国は侵略を続ける。そして私の魂は疲れた。覇者の非情を理解するに十分な期間であった」
 「私の、覇者への疑問は解消したのである。兄、頼朝を理解し得た、許し得た」
 「もはや、闘いの人生は好まない。牛若丸以後の人生をやり直したい想いである」


 私の前、焚き火の煙の向こうで、チンギスハーンの人影はゆらぐ。
 沈黙の中、敦盛が立ち上がった。
 青葉の笛(小枝の笛)を手にして。
 敦盛の笛の音が流れる。
 いつしか駆け抜ける騎馬の音も消えている。
 澄んだ笛の音が闇をとかし、満天の星空が開けた。
 両手で笛を摘んだまま、敦盛が口を開いた。
 「私も語りたい」と。
 蓮生坊・直実の錫杖を握る手に力が入った。
 「私の父は清盛殿の弟・経盛である。文武両道に勝れていた。私は父を尊敬し、父のような人間になろうと思っていた。私が笛を吹くのも、父からの伝授である。この笛も、父から借りているものである。兄の経正・経俊は一の谷で勇猛に戦って戦死した。二人とも私と同様に父を尊敬し、文武に励んでいた。経正は琵琶と文芸に勝れ、経俊は武芸に勝れていた。ともに、良き兄弟であった」
 「私は兄達が戦死したことを知っていた。屋島へ逃れることが辛かった。混乱のなかで、源氏に対する憎しみは頂点に達していた」
 「直実殿の”逃げるとは卑怯なり”の声は、耐えがたく、胸に響いた。相手の猛者ぶりなど問題では無くなっていた」
 「そして、ご存知のとおりです」、「一つ言いたい事がある。私の兄弟も父も、その他すべての平家人が、私と同じ運命であった、と言うことです」
 「私は歴史上で永く生き残った。今にして思えば、平家人の中では幸いな人間である」
 「直実殿への恨みはない。全くない」
 「恨みがあるとすれば、対話の乏しい時代に生まれた、ということです」
 敦盛は語り終わり、松の倒木に腰を下ろした。
 蓮生坊・熊谷直実の顔に微かな和らぎの微笑みが浮かんだ。その瞬間、武蔵の剣が閃いた。
 僧は錫杖を上げかけて、止めた。
 蓮生坊の首は、その表情のまま切り離された。
 もう一刀はチンギスハーンを切った。から竹割りに切り下げた。
 人影は二つに分かれ、天空に消えた。蓮生坊も消えている。
 資盛・武蔵が言った。
 「平家が滅んで817年、もう恨みは消そう。みんな成仏しよう」
 敦盛が応える。
 「私も生まれ変わりましょうか。音楽家にでも」
 二人は笑った様だった。
 私も何か言いたくなって、目出し帽を脱いだ。


 金城山の頂上、月の光が狭い空き地の落ち葉を照らし、淡い私の影を映す。
 なに事もなったごとく、自然な山頂の姿である。
 西方に白く浮かぶものがある。
 凡字を刻んだ石碑である。
 焚き火も、彼らも、その痕跡もない。
 寒さが頭部から入ってきた。もう一度目出し帽を被り、ゆっくりとテントへ戻る。
 山上の星空は、私に不可思議なものを見せる。


 嘘山行記・二部  金城山・山上の武者 (完)

ページタイトルへ 

 嘘山行記・三部・甦る惑星へ